東学農民革命発祥記念祭

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1894年の東学農民革命は、全国の約120郡県の農民が民乱を起こした(蜂起)全国的な泯乱であった。この事件が1860年代以来の泯乱(一揆)と異なる点は、村単位の局地性を克服した全国的な泯乱だったという点にある。

1894年1月には、古阜で初めて一揆を起こした農民たちは、古阜群内のマルモク市場と白山に2ヶ月近く滞在しおた。古阜民乱の目的は、郡守チョ・ビョンガプの虐政を是正してもらうためであった。チョ・ビョンガプの官職を剥奪したことで古阜民乱の目的は達成したが、民乱の指導部は、湖南一帯の各村に呼応を求める文書を送付した。しかし、隣接村の支持は得られず、3月頭には後任郡守の説得で解散することになる。また、この過程で咸悅地域の漕倉を占領しようとする話があったが、古阜郡の境界は超えられなかった。

古阜民乱に参加した農民が解散した後、チョン・ボンジュンをはじめとする古阜民乱の指導部は、茂長に身を隠し、再び農民を集めて「茂長起包」を宣言した。「茂長起包」は村単位の農民一揆の宣言ではなく、中央政府に向けた全国的な民乱の宣言だった。茂長で立ち上がってからは、白山大会に至るまで農民軍四大名義のと軍律を発表し、チョン・ボンジュンを総大将とする軍事組織を備えた。「茂長起包」の目的は、郡県の守令や管理の打倒ではなく、中央政府の権勢家と貪官汚吏.の粛清にあったため、鄕吏(地方官庁の下級役人)たちにまで民乱に合流することを促したりもした。茂長布告文の内容は国王を否定していなかったが、実際のところ、これは朝鮮王朝体制に対する明白な抵抗であった。

「茂長起包」が全国的な泯乱に広がることができたたもう一つの条件は、東学教団の教祖伸冤運動の経験にあった。村単位の被支配階層組織だった東学は、1892年から始まった3回の教祖伸冤運動を通じて農民動員の連絡網や組織網を提供されたのだ。高敞東学農民革命の記憶と伝承は封建体制の抑圧の限界を克服していく農民の意識の成長過程を記憶することにあり、命までかけて立ち上がった彼らの普遍的価値を伝承するための記念事業を推進している。

  • 期間 毎年4月中
  • 場所 全羅北道高敞郡孔音面ソンウンデロ308