高敞邑城
住所 全羅北道高敞郡高敞邑邑內里山9

外敵防衛のために築城した自然石の城郭

高敞邑城は朝鮮時代端宗元年(1453)に外敵の侵入を防ぐために、全羅道民達が「備えあれば患いなし」と括築城した自然石の城郭である。

別名を牟陽城ともいうこの城は、羅州鎮管の笠岩山城と連携し、湖南内陸を守る前哨基地として建てられた。1965年4月1日史跡第145号に指定されたこの城の周囲は1,684m。高さは4〜6m、面積は165,858㎡(50,172坪)で、東門・西門・北門と瓮城3カ所、雉城6箇所をはじめとし、城の外の垓字(堀)など戦略的要衝施設があまねく揃っている。築城当時は東軒や客舎など22棟の官衙建物があったが、兵火に燃え尽きてしまい、1976年から城郭と建物14棟を復元・整備した。

高敞邑城の築城年代については諸説あるが、高敞邑城官衙建物の保守時に見つかった上樑文など各種文献、そして城石に刻まれた文字を見ると、この城は朝鮮世宗32年(1450)から端宗元年(1453)まで、全羅左・右道の19の郡・県で区間ごとに分担して築城した跡が城壁区間ごとに刻字されている。その中には「茂長始面・茂長綜」と刻まれた跡があり、東門甕城の城壁には「癸酉所築監董宋芝玟」という文字が残っていて、これを解析してみると、高敞邑城は癸酉年に築造され、茂長県が参加したという証拠だと見ることができる。高敞邑城に関する記録は、「新增東國輿地勝覽」と「高敞縣城郭條」に初めて表示されているが、「新增東國輿地勝覽」は中宗25年(1530)に出版された書籍で、増補先に「新增」というたった2文字のみを表示したので、成宗時代に王命によって金宗直などが東国輿地勝覧の第2次修正を経て脱稿し、成宗17年(1484)以前である癸酉年に築城年代が絞られる。茂長県は太宗17年(1417)に茂松県と長沙県を統合して茂長県になったので、「癸酉所築」の癸酉とは1417年以降の癸酉年になり、高敞邑城は1453年の癸酉年に築城されたことが確実であると推測できる。

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また、石を頭に乗せて城を踏むと、病気も無く長生きできるだけでなく、黄泉では極楽門に到着するという伝説があるため、毎年踏城の行事が続いている。踏城遊びは黄泉の門が開かれる閏月に行うと効力があると伝わり、閏月の中でも3月の閏月が一番効力があるという。また、その中でも6つ目の日が黄泉の門が開かれる日といって、6日、16日、26日には踏城の行列がピークをなす。城を一周すると足の病気が治り、2周すると無病長寿、3周すると極楽昇天するという。城を回る時には必ず手のひらサイズの石を頭に乗せて3周をしなければならない。また、所定の場所にその石を積んでおくようにしている。ここで、3月の閏月が一番効力があると強調しているのは、冬の間、膨らんできた城の周りの土を踏んで歩くことで土を固くするためであり、頭に石を乗せることは体重を加重させて城の土をさらに固めるための意図があったと推測できる。

また、踏城遊びの後は、頭に乗せていた石を所定の場所に積んでおくようにしていたが、これも緊急時に石戰に備えるための用意であったと思われる。このような民俗遊びを通して、祖先の知恵を垣間見ることができるだけでなく、人の動員を強制することなく、踏城遊びを通して自ら参加させるという独特な文化の様相が伺える。

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